バブル崩壊後 2015 12 5
バブル崩壊後に、よく起こる現象に、
このような経済的な現象があります。
金利を引き下げても効果がなかった。
次に金融市場にマネーを流し込む「量的緩和策」を実施した。
しかし、これも効果がなかった。
なぜか。
バブル崩壊によって、家計も企業も、
バランスシートが崩壊しているからである。
つまり、バブル崩壊によって、
資産よりも負債(借金)の方が大きくなっているのです。
こうなると、家計も企業も、
無我夢中で、負債(借金)の圧縮に取り組みます。
この過程で、不景気が一段と深刻化するでしょう。
さて、負債(借金)の圧縮が一段落すると、どうなるか。
次は、「金融的なPTSD」が起こります。
バブル崩壊という「強い精神的な衝撃」を受けることによって、
心的外傷後ストレス障害が起こり、
中央銀行が金利を引き下げても、
量的緩和策を実施しても、
家計も企業も、「無反応」となります。
今、欧州経済が、どの段階にあるか、わかりませんが、
「金融的なPTSD」は、10年、20年の年数で続くでしょう。
リーマン・ショックというと、
アメリカの不動産バブルを連想しますが、
実は、不動産バブルの度合いは、欧州の方が大きかったのです。
サッチャー時代 2012 9 23
イギリスのサッチャー元首相は、
自由主義陣営の旗手というイメージが強く、
歴史的にも、自由主義陣営の旗手として、
人類の記憶に残るでしょう。
しかし、映画「マーガレット・サッチャー」では、
サッチャー時代の経済にも焦点を当てています。
女性でありながら、
強い指導者として首相に就任したサッチャーは、
強力に市場改革や市場経済を推進します。
いわゆる「新自由主義的な経済政策」を実施したのです。
しかし、結果は、失業率の大幅な上昇、企業の相次ぐ倒産など、
「サッチャー不景気」の様相を呈していました。
側近からは、「不景気なのに、歳出削減をするのか」とまで言われました。
サッチャーの支持率は大きく低下し、政権の危機に陥りました。
そこへ、アルゼンチンの軍事政権が、
イギリス領のフォークランド諸島を占領したというニュースがありました。
当時のアルゼンチンの政治情勢としては、
軍事政権が、民衆の不満をそらすために、
フォークランド諸島問題を煽ることで、
国内の反体制的な不満の矛先を逸らせようとしていたのです。
サッチャーの側近からは、
「本国から2万キロも離れている。
そんな遠くまで艦隊を送るのは難しい。
財政的にも、そんな費用は出せない」と言われ、
アメリカの国務長官からも、
「フォークランド諸島にイギリス人は少なく、島は経済的な価値が低い」と忠告されました。
しかし、サッチャーは、開戦を決断しました。
結果は、イギリスの勝利となると同時に、
経済は、空前の好景気となり、サッチャーの支持率も急上昇しました。
これは、戦争経済というケインズ流の景気刺激策となったのです。
こうした「サッチャー景気」により、
サッチャーの政治的な立場は、強固なものとなり、
なおかつ、自由主義陣営の旗手としての原動力となったと思います。
1937年恐慌 2009 7 4
恐慌というと、多くの人は、
「1929年恐慌」を連想しますが、
本当は、「1937年恐慌」を注目すべきです。
NIKKEI NETのマネー&マーケットで、
岡田晃氏は、「1937年恐慌」のことを書いています。
(以下、引用)
1933年に登場したフランクリン・ルーズベルト大統領が、
ニューディール政策で米国経済を立て直したことは広く知られている。
1933年までの4年間、
大幅なマイナス成長が続いていた実質国内総生産(GDP)は、
1934年からプラスに転じ、1937年まで景気回復が続いた。
1933年に50ドル前後まで落ち込んでいたダウ工業株30種平均は、
1937年に190ドル台まで回復していた。
そこで、ルーズベルト政権は、
ニューディール政策によって膨らんだ財政赤字を削減すべく、
増税に踏み切り、財政再建路線に転換した。
FRBも金融引き締めに転じた。
だが、これは明らかに誤りだった。
景気は、再び急速に悪化し、株価は、暴落した。
実質GDPは、1938年にマイナス成長へ逆戻りし、
ダウ平均は、1937年の戻り高値のおよそ半分の水準まで下がった。
これは、「1937年恐慌」と呼ばれている。
それ以降、米国経済の本格回復は第2次世界大戦後まで待たねばならなかった。
(以上、引用)